No.27 アイ・メッセージ (4)

これまでアイ・メッセージについてお伝えしてきましたが、いかに私たちが普段「私」を主語にして話していないか、本来伝えることで意思の疎通につながる私が「どう感じているか」「どう思っているか」を伝えていないかに気づかれた方も多いのではないでしょうか。日本語において「私」で話すことがなぜこれだけ意識しなければできないのかについて考える上で、1冊の本を紹介したいと思います。精神科医である泉谷閑示著『「私」を生きるための言葉 ―日本語と個人主義』(研究社)です。

このコラムのNo.13「相談者に考えさせ、認知と意識につなげる質問スキル」の中で私も取り上げていますが、クライアントが30分も会社の悪口を言った後に「やっぱりひどい会社ですよねぇ~」と、自分の意見なのか、質問なのか分からない言い方で最後の判断は話を聴いていたカウンセラーに投げてくる話法を使うクライアントは少なくないとボヤいています。そんなとき私は、「あなたが会社はひどいと思っているということ?」と「質問には質問で返す」ことで言い切らせる機会をつくり、本人に自分の発言に対する責任を持たせ、いつの間にか聞き手が判断したことになっているというリスクを軽減する方法を共有しました。

泉谷氏は、こうした日本的な主語を立てない言い方について、「一人称主語を立てずに行われる発言は、個人的で主観的な意見を言っているにもかかわらず、大げさに言えば、普遍的な真理を提示しているような意味合いを生み出しています。提示されたのが「個人的意見」ではなく、「普遍的真理」ですから、聞き手は当然それに同調すべきということになり、聞き手はまるで「踏み絵」を迫られたような事態に置かれてしまいます。もし同調しない場合には、相手に対して異端宣言をするようなものですから、相手との関係が険悪になることを覚悟しなければなりません。ですから、聞き手は純粋に自分がどう思うのかということよりも、話し手との関係性を優先的に考慮せざるを得なくなり、場合によっては、自分を偽って返答しなければならない状況に追い込まれることもあるわけです。」(同書、p11)と説いています。

泉谷氏はこうした一人称を立てない発言を「世間内言語」と称しています。著書では、日本人がこの「世間内言語」を使う理由の一つとして、「社会」や「個人」という言葉は1870年代~80年代に英語の訳語として輸入されたもので、それまでは「社会」という言葉は存在しなかった。しかし、「世間」という言葉は存在し、この「世間」とは「個人がいない」ことを示すと解説しています。その結果、「世間内言語」という形で「主語というものが表面的にはあるように見えるけれども、実質的には存在しないという奇妙な二重構造が生じた」(同書、p.30)と述べています。こうした日本語の歴史や特性から、日本語によるコミュニケーション話法には、相手との関係や「世間」的しがらみを常に考慮に入れなければいけない「不自由さ」がある、と私がアメリカでは感じなかった日本のクライアントとのやり取りの違和感を見事に言語化してくれていました。

日本語で意思疎通を図る場合、「アイ・メッセージ」を使う上でスタートラインが随分後ろであるということだと思います。したがって、アイ・メッセージをいかに意識して使って、使い慣れて行くことが大事かということなのかもしれません。『「私」を生きるための言葉 ―日本語と個人主義』(泉谷閑示著)を是非読んでみてください。日本語の言語学の裏付けと共に日本語コミュニケーションの不思議を紐解くのにピッタリの一冊です。私は読んでいる間頷きすぎて鞭打ちになるかと思いました。